親友との運命が、亡くなってからも続き成就するという話

仕事上ではなく、人生の見本となるような憧れの人と出会った話です。

大学生の時、岡山にめちゃくちゃ尖っていた『GARDEN』という服屋さんがありました。
そこで試着しているキレキレの人がいました。

別の日に、偶然入った倉敷の古着屋さん『Hopper’s(ホッパーズ)』のオーナーがそのキレキレの人でした。

その人の名前は『湯浅裕晶(ひろあき)』。
裕晶さんはシアトルからの帰国子女。青/白/赤のドレッドヘアー、黄色いピックアップトラックに乗り、『退屈は悪』といいながら平気でお店を休んで海に遊びに行き、車・アート・ファッション・フィギュア・サブカル・ダンスに精通した、まさに憧れの存在でした。それから僕は、毎週のようにお店に通い、描いた絵をみてもらい、お店の看板を描かせてもらい、グッズを委託販売させてもらったりしていました。一緒にTVの取材に出た時は随分褒めてくれました。しかし、1年くらい通った「Hopper’s」も閉店することになり、裕晶さんともそれっきりになっていました。

大学を卒業し、2年くらい経って、市内を歩いていると偶然、裕晶さんと出会い、また連絡を取り合うようになりました。僕は、市内の服屋さんに就職していて、そこに裕晶さんがお客様として来てくれるようになりました。ところが、働き先の服屋さんの社長が裕晶さんのことをよく思っていなく、そのことを裕晶さんに打ち明けました。そして今度は、裕晶さんの自宅に遊びに行かせてもらえるようになりました。『B.A.T -BadArtTerrorist-』というアートユニットも作ってロゴと名刺も作りました。ただ、徐々に仕事で忙しくなっていた僕は少し距離をおくようになりました。そんなある日、いつものように裕晶さんからの着信があった日、多忙なこともあり着信拒否をしてしまった日がありました。その日はなんとなく「あっ、もしかしたらこれが最後だったかも」みたいな予感がありました。その日を境に裕晶さんからの連絡がなくなりました。

それからしばらく経って、裕晶さんのSNSのフォローをしていた僕は、裕晶さんが亡くなっていたことを人づてに知りました。(29.February.2008 R.I.P) それを知ったのは亡くなってから半年くらい経ってからのことでした。

その何ヶ月か後、懇意にしている占い師さんのところに、別の相談で行った際に、裕晶さんがきちんと成仏できているのかを聞く機会がありました。すると「生きている人たちからの思いが強すぎて、上がるのを引き止めているね」と言われました。僕は驚きました。思いが強すぎてもまずかったんかぁ〜と。そこで僕は、お願いして裕晶さんを上にあげてもらいました。そしてその占い師さんは言いました。

「僕との繋がりは、上にあげてもらうまでが裕晶さんが決めていた運命だったんだね」

占い師さんが僕を励まそうとしてそのようなことを言ってくれたのかもしれません。だけど、運命って生きている間だけのことではない。亡くなってからも、別れても、運命は続き成就するものなんだと僕は思うようになりました。

僕は今、当時憧れていた裕晶さんの年齢を超えています。待望の長男の名前は裕晶さんから一文字もらって「晶夫(あきお)」と名付けました。今回は、長々と失礼しました。ありがとうございます。

裕晶さんが撮影した写真で写真集を作りました。ここに公開しておきます。

(追記1)
2020年12月20日(日) このエピソードに対してとても素敵な連絡をいただきました。
「裕晶さんが僕にして欲しかったことがまだあるのかな」と思いましたが、ご自身が運命として決めていたことは一旦成就しているのだとすれば、この連絡は、その後も、ずっと自分のことを見守ってくれていて、縁をつないでくれたのかもしれない。と感じています。

2020年12月24日(木) 連絡いただいた方と、お墓参りに行ってきました。
「裕晶さん メリークリスマス!預かっていたもの確かにお渡ししておきましたよ!」

(追記2)
2022年4月3日(日)この縁が、お仕事に繋がることになりました。
「裕晶さん お子さん立派に育ってましたよ!」